I-Method

アウトローとベンチャー

第2部 アウトローの手口と封じ込め
 第4章 警察と行政の弱点
  2 行政の弱点

2−1 行政のプロセス主義


 なぜ、行政は批判されることが多いのだろうか。新聞を毎日広げて、どこかに行政批判の記事を見ないことはまずない。行政の失態を皮肉交じりに報じるテレビ番組は、コンスタントに高視聴率を上げている。メディアだけではなく、市民も、政治家も、学者も、評論家も、こぞって行政を批判する。行政とは、まるで叩かれるために存在しているサンドバッグのようである。
 しかし、行政の粗を探して得意がる程度の問題意識で解決するなら簡単である。新聞やテレビが行政のアラや失態をついて得意がっている程度の問題意識なら、行政マンは誰でも持っている。行政マンがびっくりするくらいの問題の掘り下げ方をしないと、行政改革には結びつかないが、そうなると一般視聴者がついてこれなくなる。

 行政の仕事は裾野が広く、とくに自治体では与えられている権限にも予算にも制約が多く、解決することが困難な問題が無数にある。それをすべて解決できないからといって、ただちに行政が無能であるということにはならないが、最初から解決できないと諦めるような風潮があるとすれば、それは大きな問題である。
 自治体の現場の対応はとかく中途半端であり、「相手が言うことを聞いてくれないから仕方がない」という情けない言い訳をよく聞く。行政には警察のような強制捜査権も証拠押収権も逮捕もないから、相手に無視されたら手も足も出ないというのだ。これを結果主義に対してプロセス主義という。プロセス主義では、これやり得・ごね得になってしまい、指導に従わない者がますます増えてしまう。
 そこで中途半端な指導のまま放置されている問題が山積することになってしまう。どの自治体でも事情は似たり寄ったりである。
 地方議会の議事録を読むと、「どうしてできないのか」と指摘する議員の質問に対して「指導しております」と、答弁になっていない経過説明を繰り返す退屈な循環論法が延々と続いていることがわかる。

 産業廃棄物の不法投棄では、行政が指導に手間取るうちに現場が拡大してしまい、警察が捜査に着手したときには、数十万トンもの産廃が投棄された後だったということが往々にしてあった。こうなってしまえば、たとえ行為者が逮捕されても産廃はそのまま残され、行政が何百億円もかけて後始末をせざるをえなくなる。
 不法投棄のような環境問題は、対応が遅れれば汚染が拡大するのだから、中途半端な指導を漫然と続けることは絶対に避けなければならない。行政指導を無視する悪質な行為者に対しては、厳しい立入検査を実施して証拠をつかみ、強制力のある命令を発し、警察と連携して早期に行為を中止させるための体制を整備することが不可欠である。ところが、法律さえ完璧なら自ずとうまく行くはずだという机上の対策ばかりが先行し、一番大事な現場の体制づくりのほうは、最近になってようやく始まったばかりなのである。
 このような法律と現場の体制の乖離は、日本の行政のあらゆる分野に見られる最大の問題点である。法律がザル法になってしまう最大の要因は、法律それ自体よりも、行政の体制にあると言える。
 
 行政にも警察と同じように民事不介入の原則がある。しかし、ほとんどすべての経済行為に対して、行政法が制定されているので、行政は事実上、許認可権を根拠として、民間の経済行為に対して広範囲に介入している。この点では、行政の曖昧さがむしろ武器になっていると言える。
 行政指導は、行政の担当者の裁量権に基づくものであり、恣意的になりがちだと批判が多い。確かに同じ法律の同じ条文でも、担当者によって解釈が微妙に異なることがある。しかし、法律は所詮文字であり、それを解釈し、執行する担当者によって違いが出るのはむしろ当然である。
 行政法学者の中には、法的根拠の曖昧な行政指導を禁止し、すべて公文書による行政処分によるべきだという、現場を無視した理想論を説く人もいる。だが、どんなに法律を精緻にしたところで、商行為をすべて法律で記述し、行政処分で管理できるものではない。
 日本の行政法は、この無用の理想論によって、ムダな手続きの殿堂と化している。勘違いはそれだけにとどまらない。行政はただ許認可権を形式的に執行すればいいのであって、内容の審査は無用であり、虚偽の申請は犯罪(公正証書原本不実記載罪、文書偽造・変造及び同行使罪)だから警察が取り締まればいいのだというのだ。
 日本の行政法学が役に立たないのは、こうした理想論を正義だと勘違いしていることにある。それが、結果的には法律と現実の乖離をますます広げてしまい、アウトローを増長させている。現実を無視した理想論は、かえってアウトローの思う壺なのである。

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